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2010.01.20

shinzou's Roses コラム

shinzou's Roses ピース

数万品種にも及ぶバラのなかで、ピラミッドの頂点に君臨するバラがある。世界バラ会連合初代殿堂入りを果たしたそのバラは、「20世紀を代表するバラ」、「銘花中の銘花」、「平和の象徴」、「奇跡のバラ」、「永遠の銘花」などと呼ばれ、「これ以上のバラは作出不可能であろう」とまでされている。そう、ロザリアンならば知らぬものはいない、ピース(別名:マダム・アントワーヌ・メイアン)である。
エピソードを持つバラはこの世に数多く存在しているが、そのエピソードがバラの付加価値となっている場合が多い。エピソードを持つバラには、それを見る者に訴えかける説得力が伴うのだ。そして、ピースには語りつくす事が出来ないほどのエピソードが隠されている。そしてその一端をご紹介するには、ピース誕生より半世紀ほど遡らなければならない。

フランスのメイアン社は、説明不要の世界的なバラ育種会社であるが、その創設者はアントワーヌ・メイアン(愛称:パパ・メイアン)である。アントワーヌは1880年代にフランス・リヨンで誕生した。バラ好きだった彼は少年のころから栽培に関する知識や技術を吸収していたという。青年になるとフランスの栽培家、フランシス・ドゥブルーユにその才能を買われ、更に技術が鍛えられた。その後ドゥブルーユの娘、グロリアと結婚することになる。グロリアがマダム・アントワーヌ・メイアンとなった瞬間ある。
ほどなくしてアントワーヌとグロリアの間に男の子が誕生するが、その子こそが後にピースを作出したフランシス・メイアンである。ボクが察するに、幼少のころからバラ栽培に人生を賭けている両親を目の前にして育ったフランシスは、バラ好き少年の域を超え、「将来は自分が家族を支えるんだ。」という強い使命感を持っていたに違いない。メイアン家は第一次大戦などの苦境を乗り越えることができたが、大きな悲劇が襲う。フランシスが青年なったころ、最愛の母をがんで失ってしまったのだ。その絶望感たるや、計り知れないものがある。そして、その傷を癒すべく旅立った先で、フランシスは後に妻となるルイーズと出会うことになる。この旅がきっかけでフランシスは立ち直り、その後鬼神のごとく働き、欧州バラ業界の発展に力を尽くしたという。そしてルイーズとの出会いから5年後、フランシスとルイーズは結婚し、一時の幸福が訪れていた。時は1930年代後半、第二次世界大戦がすぐそこまで忍び寄っていた時代である。

そして1939年8月、ドイツがポーランドを侵攻。フランス・イギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発する。ピースの誕生時期には諸説あるが、どうやらこの年には育種場の片隅で銘花が誕生していたようである。このときフランシス27歳という若さであった。しかし、たとえ絶世の銘花がそこにあったとしても、第二次世界大戦下でバラを求めた人間が一体どれほどいたのであろう。
1940年6月、フランスはドイツに降伏。この時点でドイツの敵対国であったアメリカへの通信・郵便網は遮断されていたと思われる。そして1942年11月、ついにリヨンがナチスの占領下に置かれようとしていた前日、フランシスは本国に逃れるアメリカ領事に一本の苗木を託す。明日は何もかも失ってしまうかもしれない極限状態。育種家として脳裏によぎったのは、例え明日自分が死んだとしても、自らが作出したバラだけは後世に残したい。そう思ったはずだ。しかし、領事に託せるのは一本だけ。しかも、託したところで無事にアメリカに到着できる保証もないのだ。そんな中、フランシスは一本の苗木を手に取り、その苗木に母の名前を捧げ領事に手渡す。マダム・アントワーヌ・メイアンである。そこに一人の男の底知れぬ執念を推し量ることが出来る。
そして、その直後から3年間にわたり、「リヨンの虐殺者」と呼ばれたナチス親衛隊クラウス・バルビー率いるナチスと、リヨンを拠点としたレジスタンスの壮絶な戦いが始まる。この戦いによる死者は数千から数万人とされ、リヨンの忘れることのできない歴史として今も伝えられている。

 

イメージ一方、フランシスの情熱と母の魂が宿った苗木は戦火をくぐり抜け、遠く離れたアメリカにわたり、友人であり著名な栽培業者であったコンラッド・パイル氏の手元に届いていた。第二次世界大戦が熾烈を極める中、激戦地から届けられた1本の苗木。
コンラッド・パイル氏はどのような心境でそれを受け取り、眼前に咲いた花を見た瞬間、何を思ったのであろうか。

その花は直径15cmの超巨大輪。
クリームイエローにピンクがのった覆輪だ。
ガッシリしたした株立ちで、美しい照り葉を持つ。
それは王者の風格を漂わせていたのである。

長年にわたり、何千、何万本ものバラを見続けてきたコンラッド・パイル氏は、このバラを見て「これはとてつもないバラだ!」と直感したはずである。

そして1945年4月29日、全米バラ園芸協会はそのズバ抜けたバラに名前を与えようとしていた。丁度その時だ。ベルリン陥落のニュースが世界中を駆け巡り、歓声がわきあがった。戦争が終焉に向かっている。歓喜の渦の中、そのバラに「Peace」という名が与えられたのだ。

その後ピースは国連発足やサンフランシスコ対日講和条約に立ち会うなど、国際舞台に華やかに登場。それに加えコンラッド・パイル氏の強力な販売網によって、それこそ爆発的に売れまくったそうだ。その数は5000万本以上と言われる。名声と言う名声を欲しいままにしたピース。後にも先にもここまでドラマチックなバラは出ないのではないか。

 

イメージ第二次世界大戦下、フランシス・メイアンが一本の苗木をアメリカに送り込んでから70年。ピースは世界中を巡り巡って、遂にボクの手元にやってきた

バラの栽培を始めた当初、高芯剣弁咲が嫌いだったボクは、公園に咲くピースを見ても何とも思っていなかった。今思うと、イングリッシュローズからバラ栽培を始めたボクには、ハイブリット・ティローズを受け入れる準備が出来ていなかったのだ。

でも今は違う。ボクはピースの開花を、どのバラよりも楽しみにしているんだ。きっとその花は、光輝くような美しさで目の前に咲いてくれるに違いない。

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